「やんねばなんねえ」 大震災で壊滅した造船所を再建した船大工たちの物語 写真家・野田雅也(アサヒカメラ)

https://dot.asahi.com/dot/2023040700018.html?page=1

 東日本大震災で壊滅した造船所の再建の歩みを写した野田雅也さんの作品「造船記」にはときおり小さな島が写り込んでいる。井上ひさし原作の人形劇「ひょっこりひょうたん島」のモデルといわれる岩手県大槌町の蓬莱島(ほうらいじま)だ。この島が写っていることで周囲の風景が大きく変わっても同じ場所を撮り続けていることがわかる。

「周囲200メートルくらいのかわいらしい島です。漁師たちは漁に出る前に『ひょうたん島』に必ず行って、弁天さまにお神酒をささげ、手を合わせてから出港する。町の人々にとっては非常に心のよりどころになっている島です」

■屋根の上の遊覧船

 野田さんが東北の被災地に向かったのは震災発生の翌日、2011年3月12日だった。3週間ほど被災地を取材して東京に戻り、再び被災地に向かう生活が始まった。

「当時は週刊誌『FRIDAY』で連載などもしていたので、震災直後から1年間はあちこちの被災地をまわっていました」

 蓬莱島のある大槌町赤浜地区に目指したのは震災発生から1週間後の3月18日だった。

「『はまゆり』という遊覧船が民宿の屋根に乗り上げた。そこが赤浜地区だった」

 野田さんは04年にスマトラ沖地震が起きた際、大津波で壊滅したインドネシアの都市バンダアチェを取材した。

「そこで民家の上に乗り上げた漁船を撮影した。震災直後にヘリから写したはまゆりの映像を見て、バンダアチェとまったく同じ状況だということがわかった」

 はまゆりの空撮映像は世界中に流れ、東日本大震災の象徴となっていた。

 野田さんはがれきでふさがれた海沿いの幹線道路を迂回(うかい)し、道幅の狭い峠を越えて赤浜地区に入った。

「現地に滞在したのは1時間ほどで、ほとんど誰にも会わなかった。ただ、はまゆりを撮りに行ったという感じです。そのとき、ヘリコプターが飛んできたので、パチッと撮った。その写真に壊滅した岩手造船所が写っていた。本当にたまたまなんですけど」

 造船所が写っていたことに気づいたのはずっと後のことで、この場所に10年以上も通うとは想像すらしなかった。

■半信半疑で始めた撮影

 4月6日、野田さんは再び赤浜地区を訪れると、岸辺のがれきの中から工具を拾い集める船大工と出会った。「あの船さ、おらほのほうから流れたべ」。そう口にする船大工の視線の先にあったのはあのはまゆりだった。

 はまゆりが定期検査のため岩手造船所の第一ドックに入ったのは3月11日午前中だった。午後、甲板で点検作業中に地震が起こった。

 最大12.9メートルの津波が赤浜地区を襲った。住民の多くは近くの高台に避難したが、約1割にあたる約90人が犠牲になった。

 そんな場所で野田さんが耳にしたのは「やんねばなんねえ」という船大工の声だった。「造船所を再開する。大槌の町にもう一度明かりがともる日まで頑張る」。

 しかし、野田さんは信じられない思いがした。

「ああ、そうなんですか、という感じでした。とてもじゃないけれど『復興』なんて考えられなかった。本当に色もない、音もない世界だった。そこに遺体があって。ときどき、おじいちゃーん、とかね、肉親を捜す声が聞こえる。余震で津波警報が鳴るたびに高台に避難した。その場所にいること自体が危険だった。そんな状況で事業を再開するとか、またこの場所に住むとかいうのは、にわかには信じがたい話だった」

 それだけに船大工の言葉が記憶に残った。11月にまた岩手造船所を訪れたのはその言葉を思い出したからだった。

「本当に再建するのかな、ここに町をつくるのかな、と疑問を感じながら造船所と大槌町に絞って撮り始めた」

■「なんであんただけ?」

 どのように造船所の取材を始めたのか、尋ねると、野田さんは「へへっ」を笑い、「いつもながら、ふらりとですよ」と言う。

「本当に、取材をさせてください、と言った覚えもなくて。いろいろと話を聞きながら、自然に撮影を始めたという感じです。後で事務所の人が『なんで、あんただけいいんだろうね』って言っていた。社長はほかのメディアは一切シャットアウトしていたみたいです」

 造船所には津波で流された船がどんどん運ばれてきた。写真には到底人力では陸揚げできないような大きな船も写っている。

「どうやって引き揚げたんだろうと、ぼくもびっくりしました。がれきの撤去作業をしていたとき、船のエンジンが見つかったそうです。それを川に1週間くらいつけて、分解して真水で洗い、それを組み上げて、ロープの巻き上げ機を作った。船を引き上げるためのレールは残っていた。この二つがあったことで造船所が再開できると、社長は確信した」

「やんねばならんねえ」と、声を上げたのも社長だった。

「避難所となっていた体育館などを訪ね歩いて、船大工を一人一人見つけては、造船所の再開を手伝ってくれないかと声をかけた。船大工たちも本当によかったと言っています。みんな家を流された。家族を失った人もいた。仕事を一生懸命やることで気を紛らわすことができた」

■復興のいくら一夜漬け

 大きな船の下で何やら作業をする船大工の姿が写っている。

「津波で流されてきた杉の木をかんなで削って、漁に使うたも網の柄を作っているんです。そんな感じで流れてきた廃材でいろいろなものを作っていた」

 真っ先に修理したのは漁協の船だった。11月、修理を完了した最初の1隻が大漁旗を掲げて出航した。

「冬にサケの定置網漁が行われるのですが、それに合わせて漁協の船をまず3隻修理した。三つあった定置網もすべて壊れたのですが、それをつなぎ合わせて網を一つ作った。それで、もういきなりね、震災翌年の1月から海に出た。非常にたくましさを感じました。やっぱり恐ろしいじゃないですか。まだ余震も続いていたし」

野田さんは初漁の船に乗せてもらった。

「定置網からたも網でサケをすくうんですけれど、その柄はさっき言った造船所のおじいさんが作っていた柄なんです。造船所は船の修理だけじゃなくて、いろいろなかたちで漁師をサポートしていた」

 感謝のしるしとして、漁師たちはサケを詰めた樽を造船所に届けた。サケの腹にはすじこが入っていた。

「翌日の船大工の弁当にはいくらの一夜漬けがのっていて、そこでぼくは初めて復興というか、先が見えた気がした。つまりね、造船所が被災した船を修理して、漁師たちが海に出て、そのお返しとして魚が届けられる。故郷の味を食べることで活力が湧いてくる。そうやって人と人がつながって、社会がまわり始める。あれが復興の出発点だったのかなと、思います」

■撮っても、撮らなくて

 野田さんは軽自動車の中に寝泊まりしながら造船所に通った。

「造船所には朝7時半から夕方5時、6時くらいまで1日中張り付いていました。撮っても、撮らなくてもそこにいる、という感じでした」

 船大工の多くは避難先の体育館から造船所に通っていた。野田さんは船大工一人一人と長い時間を過ごした。

「例えば、黙々と溶接する横にいて仕事を見ている。そういう時間を過ごすことによって、一人一人と打ちとけて、その人の背景を知った」

 町の外からやってきた野田さんに気持ちを吐き出すことで少し楽になった船大工もいたという。

「仕事をしながら、ボソボソっと、話をしてくれるんですよ。例えば、ある船大工のお兄さんは助かったんですが、家や家族は流されて、自分だけ生き残ったことを悔いて翌年に自殺してしまった。そんな苦労をしながら、こんな笑顔があるんだと思いながら撮影した。ストレスでこんなに歯が抜けちゃったよ、と言いながら、がははと笑っているような写真をね」

■町に明かりがともった

 造船所の周囲にあったがれきは徐々に撤去された。17年に撮影した写真には巨大な砂利の山が写っている。無機質な風景の奥に蓬莱島が見える。その手前、造船所に置かれた漁船だけが生活のにおいを感じさせる。

 作品は22年3月11日に撮影した美しい夕景で終わる。新しい住宅が建ち並び、奥には青い残光に照らされた海が光っている。

「これはさっきの写真にあった土盛りをしていた場所です。本当に新しい街ができた。住宅地の向こうに『ひょうたん島』があって、造船所の船も見える。最初、船大工たちが大槌の町にもう一度明かりがともる日まで頑張ると言っていたので、最後はそういうシーンで終わりたいな、と思っていた。一つひとつの屋根の下に家庭があって、それぞれの物語がある。美しい街になったな、よかったな、と思いながら撮影しました」

 大津波で無残に折れた蓬莱島の灯台も立て直され、赤い光を放っていた。

(アサヒカメラ・米倉昭仁)

【MEMO】野田雅也写真展「造船記 Chronicle of a Shipbuilder」
アイデムフォトギャラリーシリウス(東京・新宿御苑) 4月13日~4月19日

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